色収差

レンズの屈折率と分散率が色の波長によって異なるため、白色光を通すと、屈折率の高い紫はレンズ側に、屈折率の低い赤はレンズから遠くに焦点を結ぶ。これは、どのレンズでも程度の差はあるが起きる現象で色収差という。 色収差には波長によって光軸上の焦点位置が異なる「軸上色収差」と特に画面周辺部で波長の差が像倍率の違いとなって現れる「倍率色収差」がある。 くりっく365は揚州と並んで豊かな土地であり、「天府」と称されていた。ここに割拠したのが前蜀・後蜀の両蜀政権である。前蜀の建国者・王建は元は塩徒だったが、四川に入ってここを制圧し、当地の豊かな物産を元に文人の保護や経書の印刷を行うなど文化的施策を行った。前蜀は925年、後唐によって滅ぼされる。その後、この地の統治を任された武将・孟知祥が自立して934年に後蜀を建てた。後蜀は前蜀と同じく文化振興に力を入れ、特に唐末期からの詞を集めた『花間集』の編纂はこの時代の文化を伝える上で大きく貢献した。 中原の五代王朝は旧唐王朝の版図の6割を押さえていたが、国内情勢の不安定さに加えて契丹などの外敵も抱えており、十国の平定に乗り出せる状況ではなく、不安定な勢力の均衡が保たれていた。だが、五代最後の後周が荊南・南唐領の侵食を始めると、その均衡は一気に崩壊することになる。 FXは内政に意を尽くし、刑罰の緩和・自作農の養成・税制の不公平の是正などの政策を行い、相次ぐ戦乱で荒廃した中原の復興を行った。 この蓄積を元に統一の大望を燃やしたのが、954年に即位した柴栄(世宗)である。世宗は五代の中で随一の名君とされる。 世宗がまず行ったことは、自立性の強い軍人たちを抑えることである。その軍人たちを抑える目的で作っていた侍衛親軍が強大化しすぎていたために一旦これを分割して殿前軍を創設し、これを強化して節度使も禁軍司令官も皇帝に対抗できないようにした。その兵力を元に南唐・後蜀・北漢・遼などを攻め、領土の一部を奪い取った。中でも南唐から奪った土地は塩の産地として極めて重要な地域であり、この地を抑えたことで南唐の生殺与奪権を掌握したと言っても良い。 また軍事費を捻出するために、廃仏運動を行った。中国では「三武一宗の法難」と言われる廃仏運動が行われており、「一宗」が世宗のことである。当時は税金逃れのために非課税の僧侶になるものも多く、これらから徴税することで大きな収入が見込めた。また当時は貨幣を鋳るための銅が不足していたが、仏像などを鋳潰して再利用し、「周元通宝」という銅銭を鋳造した。 統一への道を突き進んでいた世宗だったが、959年に遠征から帰る途上で病死する。 投資信託の後を継いだのは、わずか7歳の柴宗訓である。この状況を見た北漢は遼の後押しを受けて後周に対して侵攻してきた。これを討伐に出たのが、世宗一の側近であった殿前都点検(禁軍司令)の趙匡胤(太祖)である。 幼帝を戴いて遼と戦うことに不安を覚えた軍人たちは、途中で趙匡胤を強引に擁立した(陳橋の変)。首都・開封に入った趙匡胤は柴宗訓を保護して禅譲を受け、宋(北宋)を建てた(960年)。五代では禅譲はいくつも起きたが、これまでの禅譲では譲った皇帝は後になって逆襲されることを恐れて殺されるのが当たり前であった。しかし柴宗訓は無事に生涯を全うし、柴宗訓の子孫は南宋の滅亡まで手厚く保護されている。 太祖はそれまでの軍人が政治を執る五代の傾向を改めて、「文治主義」を打ち出した。科挙の整備・地方の軍隊の弱体化と中央軍の強化・節度使職の無力化などを行い、内部を固めた太祖は世宗の路線を引き継いで統一への道を歩み始める。 まず、963年に中国大陸の中央部の要地である湖北の荊南を併合した。このことで十国は東と西に分離され、団結して宋に対抗することが難しくなった。次いで965年に四川の後蜀を併合し、当地の豊かな物産を強奪して戦費を補充し、971年には広東を支配する南漢を滅ぼした。そして975年、華南における最大勢力の南唐を滅ぼす。 これで残るのは北の北漢と南の呉越だけとなったが、太祖は唐突に病死した。これには弟であり、第2代皇帝・太宗となる趙光義による毒殺も疑われている(千載不決の議)。 資産運用は太祖の方針を受け継いで統一を進め、978年に呉越を併呑し、979年に北漢を滅ぼして遂に統一を完成した。唐の滅亡から約70年である。 十国の中で最も強大なのは、中国でも最も豊かな地帯に拠った呉であった。建国者・楊行密は群盗から身を興して、揚州一帯を制圧、一時は北の後梁と互角に争い合う程の勢力を誇った。しかし呉では楊行密の死後は配下の徐温の力が大きくなり、最終的に徐温の養子・徐知誥によって簒奪される(937年)。徐知誥は簒奪後に名前を変えて李?と名乗り、唐の後継者を自称して国号を「唐」とした。後世の歴史家よりは南唐と呼ばれる。 同時期に南の浙江では、呉越が勢力を張った。建国者・銭鏐(せんりゅう)は塩徒(塩の密売人)から身を興し、浙江一帯を制圧した。北に強大な呉・南唐と対峙していたので、常に北の五代諸国に対して臣従することで、呉・南唐に対抗していた。 呉越の南の福建では、節度使・王審知がこの地を制圧して?を建てていた。王審知は内政に努め、福建の生産力を飛躍的に向上させた。しかし王審知の死後は内紛が起こり、そこに付け込んだ南唐によって945年に滅ぼされる。 西に目を向けると湖北には荊南(南平)、湖南には楚、広東には南漢が割拠していた。荊南は十国の中でも最小の国で、周辺諸国全てに対して臣従して交易の中継点として栄えた。楚は茶の貿易で栄えた国で、建国者・馬殷の在世時には経済的に大いに奮ったが、死後の内紛に付け込まれ、951年に南唐によって滅ぼされた。南漢の統治者の劉氏はアラブ系と言われており、その宮廷では戦乱の五代十国では珍しく文官の力が強かった。しかし後期にはその政治も堕落し、宦官政治へと変質した。 歌舞伎や人形浄瑠璃の戯曲において、戦国時代以前の世界を描いた作品。江戸時代の風俗に基づく世話物の対義語とされる。作品中の時間設定とはかかわりなく、その場の風俗や登場人物の設定が非江戸時代的であれば時代物として扱われ、ここから転じて、大仰で様式的な演技や台詞廻し、またそれらが型として求められる部分を「時代」ともいう。→歌舞伎の項参照。 小説、映画、テレビドラマなどの分野で、江戸時代以前を扱った作品のこと。主として江戸時代を舞台とする作品についてのみ用いられることが多く、髷もの、時代劇などと呼ばれることもある。内容的には世態人情を扱った時代小説的なものが中心となるが、広義には歴史小説的な筆致のものも含める。歴史における時代区分の1つ。一般的には、文字が成立し、文献資料によって歴史事象を検証することが可能な時代を指す。それ以前を先史時代(せんしじだい)という。 外国為替証拠金取引の進展の度合いが地域によりまちまちであるため、世界統一の暦年代や絶対年代で示される用語ではない。また、インカ帝国にみられるように、文字文化のみられなかったところでも天文学や建築技術など他の分野が高度に発達した例もみられ、また結縄のような文字によらないコミュニケーション・記録方法もあることから、必ずしも文字資料の有無で時代を区切るべきでないという考え方もある。 FXがいつから文字文化をもつようになり、文字社会に入ったかについては、多くの議論のあるところである。現段階では、おおむね古墳時代が日本の先史時代と歴史時代の境をなすとみなすことができる。ただし、文字資料そのものは弥生土器に漢字が墨書・刻書されている例があり、日本に関する記録としては、前1世紀の中国の史書『漢書』「地理志」などがある。 歴史時代は、歴史学(文献史学)からのアプローチと考古学からのアプローチとの双方が可能であるが、先史時代については考古学的アプローチが唯一の検証方法となる。また、歴史時代では、文献資料と考古資料とを照合し、分析し、検討を加えることによって遺構や遺物、ないしは遺跡の暦年代が明らかになることもまれではない。